ある時、お釈迦様が弟子たちと托鉢に出かけられました。
しばらくして行く手が二股に分かれていましたが、お釈迦様が右に歩まれるとお弟子の一人が言いました。
「お釈迦様、失礼ですが、道を間違われたのではないでしょうか?
この道は、大変貧しい人の住む部落に向かいます。
最近の飢饉で餓死する者まで出ているところです。
そんな村に托鉢に行かれても布施する人はいないでしょう。
反対の道ならば、大地主や大商人たちの住む町ですから、布施する人も多くありましょう」
するとお釈迦様は仰いました。
「道を間違えてはいない。
この道が、貧しい村に通づることは知っている。
布施は貧しい者ほどしなければならないのだ。
彼らが現在、餓死するほどに貧しいのは、過去世で欲深く、布施の功徳を積まなかったからである。
布施を励んだ人は、恵まれた家に生まれ、施しをしなかった人は貧しいところに生を受ける。
彼らは自らの報いを受けているのだ。
貧しい中から、米一粒でも布施をして、功徳を積むならば、それにより、彼らは今の苦しい状態から、抜け出せる。
長者の万灯よりも貧者の一灯、布施の尊さは量にはよらない。
貧しさに苦しんでいる人ほど布施をしなければならないのだ」
弟子たちは深く頷きました。
お釈迦様は十数日にわたり、その村に滞在され、村人からのわずかな布施の米粒で粥を作られ、弟子たちと分け合ってすすりながら法を説かれたのでした。
お釈迦様の大慈悲に、村人たちは次第に仏法に耳を傾け、ついには多くが仏教信者となったといいます。
何かを施してもらうための托鉢であれば、お釈迦様は富豪の町に行けば良かったはずです。しかし、施しという幸せの種まきは、蒔いた本人にしか幸福という結果は返ってきませんから、貧しさで苦しむその人自身が、自ら種を蒔かねばなりません。
また、いくらお金を持っていても、施す機会に恵まれなければ、種まきはできません。
善い種を蒔いて、善い結果が現れるのは、蒔いた本人です。
自業自得という言葉は、誰もが知っている仏教の言葉ですが、「業」とは「行為」の意味で、自らの行為の結果を自らが得るということです。
一般には、悪いことだけに用いられますが、仏教の教えから言えば、善いのも悪いのも自業自得です。
ふだん、仏法を聞かせていただく機会のない皆さんは、葬式や法事を御縁として仏教を聞かせていただき、自分の人生を深く見つめることが大切です。
浄土真宗本願寺派
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13代目 西林 広順(にしばやし こうじゅん)
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