宗教という言葉に拒絶反応を起こす日本人ですが、果たして宗教と切り離して日常生活が成り立っているのか
少々疑問に感じます。
受験勉強は完璧にこなしたにもかかわらず、入試直前になると合格祈願のお願いをしたり、新車購入の際、
交通安全のお守りを戴いたり、丈夫な子が生まれるように安産祈願の腹帯をもらいに行ったり返しに行ったり
大忙しです。また家族全員の無病息災を祈ったり、厄年を迎える前そしてその後まで、それはもう大変なこ
とです。もう何でもかんでも神さま仏さまにお願いしまくりの日々が現実ではないでしょうか。またクリスチャンでもないのにチャペルで行う結婚式。クリスマスを家族で過ごし、ケーキを食べて「メリークリスマス」なんて、もう当たり前の光景でしょう。しかしながら幸せを願うようなことばかりではなく、もっと当然に起こりうること、それは家族に死が訪れた時です。どこかのお寺の檀家でもなく、信徒でもない、全くお寺とは無縁だった人も「うちの家の宗派は何?」といいながら、ほとんどの人が仏式でのお葬式を望まれます。その背景には、
先祖から受け継いでいるであろう既成宗教つまり仏教の〇〇宗への帰属意識が働くからなのでしょう。さらにいうと宗派の確認ということです。
しかし、これらの行動はどれをとっても現代人には宗教行為という認識は薄く、また宗教という言葉自体に違和感を覚える人が多いのかも知れません。特定の宗教に入信して活動している人のことだけを宗教行為とみなし
そのことが特別視されるのではないかという感覚から、無宗教を宣言することが美徳とされてきたのかもしれないです。でも葬儀にしろ結婚式にしろ、初詣、厄除け、諸々の祈願の行為は間違いなく僧侶や神主、あるいは牧師などの宗教者抜きには行うことが出来ない宗教儀礼であり、れっきとした宗教行為なのです。
宗教の「宗」の字は「ウ冠」に「示す」と書くことから、ウ冠は「家」であり、宗教とは「家で示す教えなのである」と聞いたことがあります。「家の宗教」は大抵の場合、子々孫々受け継がれて行きます。
核家族が当たり前の世の中になった現代においても、昔の記憶にある、お仏壇の前に座って手を合わす祖父母の
姿、戴き物はお仏壇にお供えしてからいただくことを教えられたこと、お墓参りに行ったことなど。いろんなことを思い出すのではないでしょうか。遠い昔からご先祖のいのちを受け継いでいることや、いのちの尊さ、大切さを知らず知らずのうちに学んで来たはずです。まさしく「家で示す教え」だったようです。
しかしこの国は経済大国になり平和で豊かな社会になった反面、自己中心的な凶悪犯罪が増えてきているのは
やはり家庭における宗教教育の欠乏が影響していることも否定はできないはずです。
自分たちが生まれるずっと前から受け継がれている「家の宗教」はまた次の世代、そのまた次へとバトンを渡していかなければならないと思います。そしてその間に「家の宗教」は「私の宗教」となっていくはずです。
自分自身がしっかりと地に足のついた気持ちでいれば「私の宗教」がぶれることなく、無宗教なんて言えないようになるはずです。
浄土真宗本願寺派
西照山 西向寺
〒583-0846 大阪府羽曳野市東阪田245
TEL&FAX:072-956-0063
13代目 西林 広順(にしばやし こうじゅん)
文禄3年(1594年)
近鉄南大阪線(長野線)
喜志駅下車徒歩約15分(タクシー約5分)
南阪奈道、羽曳野ICより旧170号南へ約5分 西名阪道、藤井寺ICより170号南へ約15分
※本堂内に椅子、冷暖房、駐車場(約6台駐車可)完備。
どうぞお気軽にご相談、お問い合わせくださいませ。